ゲーテ・親和力
(小笠原 茂介より抜粋)
親和力とは、愛がおのおのに満ち足りないものを求めあい、惹きあう魂が導かれてゆくこと。
ゲーテにもっとも近い分身,愛と心情の天才としてのエドアルト、 オティーリエヘの愛に目覚めたものは,じつに彼のもっとも深く,もつとも純粋な層であり,いままでは眠っていた生命であった。
「いや,私はいままで愛したことがなかったのだ。いま私は,はじめて,それがどんなものであるかを知った。私が彼女を知り彼女を愛し,まったくほんとうに愛するまでは,
これまでの私の生活においてのすぺては序幕であり延期であり,慰みであり,時間の空費でしかなかった.人は私を,面と向ってではなくとも,陰ではきっと,非難したであろう。私はたいていのことがらで,ただぞんざいな仕事をし,未熟であると,それもそうだろう,しかし私はいままで,私がそのうちに熟達者として私自身を示しうるものを見いださなかったのだ。愛の才能において,私を凌駕するものがいたらみせてもらいたい。」
エドアルトとの静かな,おだやかな結婚生酒に第三者の介入すること
の危険性をシヤルロッテは,自分とエドアルトとの関係が決して崩れることのない,
強い結びつきを持ったものではないことを,すでに感じとっていたのであろう。
このような彼女の生活態度に,ある白々しい恐怖を、何かしら暗い,おそろしい予感に満ちた-それは彼女の透徹しきらない理性の底に横たわる一種のニヒリスムスとも呼べるのだろう。
彼女の理性はその前に張りめぐらされた安全柵である。
彼女の人間的成熟と発展との限界は,またそのことから理解されねばならないだろう。「自分に何かを拒まれることには慣れていなかった」わがままな気紛れなエドアルトの求婚が,過ぎ去った夢を追うものにすぎなかったことを知りながらも「私たちは懐い出をたのしみ,懐い出を愛しました。」とついに結婚を承諾する彼女の生き方は
そうしたことにも原因してはいないだろうか。ついには破れざるをえなかった彼らの結合の不安定な要素がここにも示されている。
彼女の理性・節度は,彼女の感性の深みにその根源を汲んでいるのではない。彼女が大尉との愛を断念し,エドアルトとの結婚の続行を願うのは,一に彼女がその受動的な姿勢のまま結婚の神聖という概念に引ずられる結果である。理性の限界をおぼろに知りながらも,なお理性の冷い優越をその生活信条とするシヤルロッテ。「静かな,おだやかな幸福」にとどまるには,あまりに高く,あまりにとうとい使命が,人間の生に負わされていることを感じ知らないシヤルロッテ。いまや彼女は「自分自身にたいして用いた力を,他の人々からも要求することができる」ように思い,冷く峻厳にこの悲劇を奈落へと押しすすめていくのである。 エドアルトとの離婚を拒み,結婚生満の結行を厭うのは,彼女の固定した「結婚の神聖」という観念というより、むしろ,ひろく彼女の生き方,その受動的な姿勢の自然の結果である。
「私たちを生活が引ずっていくとき,私たちは私たちの意志で行動し,仕事やさまざまの快楽などを選択するように思っております。しかし実際にそのことを直税するなら,私たちがともに遂行するように強いられるものは,時代の諸計画や諸傾向でしかないのです。」シヤルロッテのことばは,彼女もまた白からの澄明な理性と意志とにもとずいて行動しているのではなく,エドアルトやオティーリエが盲目な自然力の支配を受けているとするなら,それと同程度に社会力もしくは文化力(自然より形成され,同様に盲目な力の支配を受けるものとして)の支配を受けているに過ぎないことを意味してはいないだろうか。
この社会・文化-それはより高い何ものかへの,いや,自然そのもののより高次の発展として捉えられはするが,ときとして停滞し固化しては,しばしばおそるぺき反動となり進歩の放となり,みずからの根源をそこに仰ぐ自然の抑圧者となるのだ。先にのべたシヤロッテの節度の美徳も,それが短所に変じては,あくまで社会の伝統・風習,さらには体面に縛られての常識的なものに過ぎず,すべての価値体系の根概に潜むこの自然なるもの,人間の生の夷の意味を把捉し洞察することを知らないのだ。それに反しエドアルトが「何と多くのことがらにおいて,人は自分のもくろみや行動をひつこめることだろう.しかし節々のことではなく全体としてのことがらが,これやあれやの生活の条件ではなく生活の重体が話されているようないまの場合には,決してそんなことがあってはならない。」というとき,それはより真実な,より豊かな世界観への展望を開くように思われる。
しあわせなものは,満足しているものは,口先だけではなんとでもいえる。しかし彼が,悩んでいる人間にとってどんなに堪えがたいものとなるかを見てとったら,きつと恥じることだろう。限りない忍耐がなくてはならない。限りない苦しみを,鈍感な満足した者は認め知ろうとしないのだ。」を,それぞれ、どのような感じで受けとるだろうか.エドアルトとオティーリエがそのうちに投げこまれたカオスの名状しがたい深処を,シヤルロッテらは決して感じ知ることはないだろう。たとえ彼らがそれを理解しようと欲し,また理解しえたと思うときにおいてさえもエドアルトとオティーリエは,神秘な存在の根源から発し,名づけ難い生の深みに触れ,遠くシヤルロッテの理性の限界を越えて,永遠の愛の世界に飛翔し去るのにたいして,シヤルロッテはもはや諦念せる傍観者でしかなくなるのだ。このシヤルロッテの限界は同時にまたゲーテの理性と観照との限界であり,さらにゲーテが南欧の古代に求めた古典的尺度のゲーテ自身とその環境とにたいする意義の限界でもある。
「親和力」全篇のテーマは,相対的歴史的なもの(社会の掟)と永遠なもの(自然と
人間の愛と生命,エロス,実在)との矛盾抗争の悲射的象徴である.この世に事実として悲劇は存在する。ゲーテはただそれを取り出して,その生々しい姿を私たちの眼前に展開してみせる。ただ二人一緒にいることだけで充分だった。というのは,それはもう二人の人間ではなく,意識さえもない,完全な満足のうちにいる,自分自身と世界とによろこびを感じているただ一人の人間だったからだ.」にみられる悲しく美しい相愛の姿,またあの無限に高まる感動のリズムをもったむすびのことば.
「こうしていま,愛しあう二人ほ,ともに並んでやすらんでいる。いつかふたたび彼らがと
もにその眠りからめざめるとき,それほ何というなつかしい瞬間になることであろ
う。」ここに私たちは,愛しあうものたちに永遠の平和を,そしてふたたびはこの悲劇
をくりかえさないようにとのゲーテの魂の願いを感じとるのである。
それはただに霊魂の復活とか不死とかいう考えを越えて,次のゲーテの言葉に見出される人類の未来への希望に共通するものであろう。
人類は相集って始めて真の人間なのであり,個はただ全体のうちに自己を感じる勇気をもつときに、はじめててよろこびに満ちて幸福でありうるのだという美しい感情が生まれてくるのである。